４
月宮あゆという名前には、秋子はこれまでに二度遭遇している。
一度目は七年前だった。
その頃、姉の子である祐一は毎年のように遊びに来ていた。
姉夫婦は都会で生活していたから、長い休みくらいは子供を環境の良いところで遊ばせたいという気持ちもあっただろうし、母一人子一人の秋子に賑やかな気分を味わって欲しいという意図もあったかも知れない。
もう一つの可能性については、秋子は考えないことにしていた。姉と義兄は享楽的な人間だったが、学校が休みになったからといって子供が邪魔になるようなことはない筈だと信じたかった。
その年、もう帰る日が今日明日に迫った日、祐一は日が沈んでも家に帰らなかった。
数日前から妙に一人で出歩いていたので、誰か友達ができたのだろうとは思っていたが、そこまで遅くなったことはなかった。
仕事が終わった早々に秋子は祐一を探しに出たが、一回りして帰ってきたところに入った電話は派出所でも消防署でもなく、病院からだった。
祐一は擦り傷だらけで、町外れの丘の麓で保護されたという。背中には同じ歳の女の子を背負っていた。
その子の名前が、月宮あゆだった。
少女は手近な病院に運ばれたが、意識不明の重体だった。全身を打撲していたが、一番強く打ちつけていたのは頭部だった。
衰弱していた祐一が口が利ける状態になったところでぼつぼつと語ったところによれば、彼女は高い木の枝から落ちたということだった。警察はすぐに現場に出向き、それに間違いがないことを確かめた。
もっとも、そんなことが判明したところで、彼女の容態に変化があるわけではなかった。最初の危篤状態からは脱したらしいが、意識は全く戻らなかった。
ＰＴＡの突き上げもあってか、少女が落ちた木は根元から伐られ、それで事件は終わりを告げた。マスコミの取材なども若干はあったようだが、秋子や名雪のところにまでそれが届くことはなかった。
噂では、地元の有力者名義の土地だったため、様々な面倒ごとを嫌った地主が報道関係に手を回したのだという。何処まで本当かは判らないが、古い土地柄のこの辺りでは如何にもありそうな話だった。
秋子は何度か少女を見舞いに行った。しかし、病室はいつも面会謝絶の札が掛けられていた。
祐一の方から少女の病状を聞いてくることもなかった。暫くして姉に電話を掛けたが、祐一は事故のことを忘れてしまった、もうそのことには触れないでくれという素っ気無い言葉が返ってきただけだった。
そのうちに少女は別の病院に転院してしまった。
転院先を訊き出せなくもなかったが、それ以上の関わりを拒否されているような気がして、秋子はそれ以上見舞いに行くのを止めた。
その年の夏から、祐一がこの街に来ることはなくなった。
二度目は、今年に入り、祐一が久しぶりにこの街にやってきてすぐだった。
あの、夕焼けの中で別れた、からし色のダッフルコートの少女。様々な仕種がまだ記憶に新しいその少女も、月宮あゆと名乗っていた。
初めて逢ったとき、秋子は少女の名前に疑問を覚えたが、それ以上の詮索はしなかった。
恐らく別人だろうと漠然と考えたからだ。木から落ちた子供が回復したという噂は耳にしたことがなかった。
それに、その場ではどちらでもいいことでもあった。少女は何時の間にか回復していて目の前に姿を現したのかも知れないし、同姓同名の別人かも知れないが、どちらにしても少女が祐一の親しい友人であることに違いはなかった。
商店街や自宅で何度か会い、話を交わすうち、恐らく少女は木から落ちた子供なのだろう、と秋子は考えを改めていった。
それでも秋子は少女にそのことを尋ねることはしなかった。
事故は少女にとっては触れたくない事件だろうし、もう一人の当事者である祐一は、少女に会ってからも事故の記憶を封印したままでいる。この状況で辛いことを無理に掘り起こす必要はなかった。
とうとう最後まで直接確かめることをせずに終わってしまったが、あの夕焼けの中で別れた日から、少女が木から落ちた子供だということは秋子の中で確信に近いものに変わっていた。
子供っぽい感性だとは思うが、祐一が七年ぶりにこの街に来たことと、その直後に少女が彼の前に姿を現したことにも何か不可思議な繋がりがあるように思えた。
それは七年前に関わりを持つことを断られた秋子だからこそ抱いた、屈折した幻想かもしれない。だが、そのくらいの御伽噺があってもいい、と秋子は思う。
そうでなければ、あの事故にかかわったすべての人が、あまりに報われないではないか。
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