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　あたしは、相沢くんの話を一通り聞いた後、素直な感想を簡潔に述べた。即ち、
「――馬鹿」
　だ。
　叱られた飼い犬のような顔で、何がだよ、と相沢くんが聞いてくるから、続けて
「言葉通りよ」
　と言った。
　案の定彼は、恨みがましい目であたしを見たまま、押し黙ってしまった。
　西の空を染めていた夕日が沈みきると、どこからともなく虫たちが現れて、夜の風景を形作る。
　眩い光に誘われた虫たちが自動販売機に突撃する。甲殻虫が体当たりを繰り返し、こつ、こつ、と音を鳴らす。
　虫たちが奏でる無秩序な打楽を聞き流しながら、缶の底に残っていた無糖コーヒーを飲み干した。
「俺には見当も付かないんだよ。栞が何であんなに怒ってるのか――」
「恋人なのに？」
「茶化すなよ」
　オレンジジュースの入ったアルミ缶をぺこぺこ鳴らしながら、相沢くんは憮然とした。
「相沢くん、あなたね。理由も判らず謝ったわけ？」
　空になった缶を缶入れに捨てて、あたしは自動販売機に背中を預けた。腕を組んで、呆れた顔をする。
「それは栞でなくても、怒るわ」
「そうじゃなくて」
　同じことよ――と、冷たく彼の言葉を遮った。
「最初に栞がどうして怒ったのかは判らないかもしれないけど、喫茶店で栞を逆上させたのは相沢くんのその態度よ」
　そう言うと、相沢くんは言葉に詰まった。
「相手が怒っているから、取り合えず謝っておこうなんて、馬鹿にしてるとしか思えないんじゃない？」
「それは――その通りだ。反省してる」
「あたしに反省されても困るわ」
　ぐ、と変な声を出して、相沢くんは再び言葉を詰まらせる。
　――少し苛め過ぎたかもしれない。
　だが、あたしに相談なんかすれば、こうなることはわかっていた筈だ。
　彼が電話をかけてきたのは、今日の夕方だった。
　栞はクラスメイトと出かけていたから、そう伝えると、相沢くんは一言「知ってる」と答えた。
　栞ではなく、あたしに話があるのだ、と。わざわざ栞の居ない時間を狙って電話をかけてきたわけだ。
　夕食の支度があったので、食後に会う約束をした。約束の時間に指定された近所の自動販売機郡に着くと、よれよれのTシャツにバミューダパンツというだらしない格好の相沢くんが、よぅ、と片手を上げた。
　彼は手間賃代わりにジュースを奢ると言い、あたしの所望した無糖コーヒーと一緒に、自分のオレンジジュースを買った。
　よく冷えた缶のプルトップを開けると、口をつけるより先に、栞のことで相談があると言ったのだった。
　

　――見ると、彼はまだ黙ったまま手元のオレンジジュースの缶を見詰めていた。
　あたしは中休めに話題を変えることにした。
「それにしても――ふぅん、相沢くんがエロ本をね」
　からかうように言うと、
「悪いかよ。健全な男の証だ」
　意味も無く威張る。オレンジジュースを持ったまま胸を張っても様にはならないと思うけど。
「それよりも、エロ本なんてはっきり言うなよ、香里も一応女だろ」
　前時代的な彼の苦言を無視して、あたしは意地悪く笑った。
「名雪に言うわよ」
「なんでそこで名雪が出てくるんだよ」
　拍子抜けしたように彼は脱力した。
「だって、栞にはもうバレてるんでしょう？　後は名雪しかないじゃない」
「名雪にバレたところで痛くも痒くもないぞ」
「捨てられるかもしれないわよ、全部」
「それは――困るな」
　うぅむ、と唸る。相変わらず冗談なんだか真面目なんだか判らない人だ。
　そう、相沢くんは普段から超然としたところがある。端的に言えば変わり者なのだが、大物と言えなくも無い。
　なのに、今回は栞のことでは大分参っているようだ。
　彼の恋人の姉としては、それが情けなくもあり――少し安心もする。それだけ栞を大切に想ってくれているということだろう。
　――七年以上彼を想いつづけてきた従姉妹の親友としては、複雑でもあるけど。
　全く、とあたしは思う。色んな意味で罪な男だ。
「とにかく、栞が何故怒っているのか。その理由を考えることじゃないかしら」
　自動販売機から身体を起こして、話題を戻す。いつまでももたれていると、髪に虫がたかる。長髪もこれで面倒なものなのだ。
「それについてはずっと考えてるんだが……」
　彼はついさっきも言っていた。見当も付かない、と。
「エロ本の一件じゃないとすると――」
「それは嘘ね」
　あたしは断言した。
「嘘じゃないって。本当に思いつかないんだよ」
「そっちじゃなくて。栞よ」あたしはまた、呆れた顔に戻る。これが一番あたしらしい表情なのかもしれない。「握りつぶされていたんでしょう？　なら、エロ本は原因の一旦ではあるはずよ」
　真実怒っていなければ、そんなことはするまい。
　彼は間の抜けた顔で、そういえばそうか、と言った。
「でも、それだけであんなに怒るか？　普通」
「怒る人は怒るでしょうね。あたしならさして気にはしないけど」
「栞は――どうなんだ」
「知らないわよ」溜息交じりに答えた。「あたしは栞専門の恋愛カウンセラーじゃないんですからね」
　それで話はお終いとばかりに、自動販売機の脇に止めていた自転車に向う。
　後は相沢くんが考えることだ。確かにあたしとしても気になるところではあるけれど、これ以上あたしが関わることでもない。
　相沢くんは、オレンジジュースの缶を捨ててから、サンキュな、と御座なりに礼を言った。
　そこでふと気になって、脚を止めて振り返った。
「相沢くん、コーヒー党じゃなかった？」
　確か、昼休みの食後や、数回同席した――栞に半ば強引に同席させられた――喫茶店の席では、コーヒーを飲んでいたように思う。
「いや？　というか、あんまり好きじゃないな、コーヒー」
　彼は怪訝そうに言った。
「でも、栞の前だとコーヒーじゃない」
　そう言うと、相沢くんは、そういえばそうだなと言って――理由を探るように、暫く宙を見詰めてから、
「格好悪いだろう？　オレンジジュースじゃ」
　と笑った。
　それであたしは――。
「――案外、その辺が原因かもしれないわね」
　――あたしは、勘が良い方だと思う。
　湿気を含んだ夜の風に吹かれて――。
　彼は、一層怪訝な顔をした。






　あたしは家路で自転車を漕ぎながら、断片的に取得した情報を整理し、ピースを繋ぎ合わせて、一枚の絵を描いていた。
　暇つぶしだ。夫婦喧嘩は犬も食わない、という。いちいち妹の痴話喧嘩に関わってなんかいられない。
　それでもあたしは考える。自転車を走らせている間は、他にすることも無い。
　相沢くんが気付いていないこと――。
　栞が顔を背けている事実――。
　おぼろげながら、それでもぼやけた絵は、徐々に実像を結んでいく。
　部外者だからこそ見えることもある。栞の姉だからこそ、知り得る事象もある。
　煩くなってきた前髪を片手で撫でつける。夏前に切ろうと思っていたのに、気付けばもうすっかり夏だ。
　肩を剥き出しにして過ごせる、この街ではほんの僅かな季節。果てが無いと思えるほど長い冬に比べて、夏は瞬きほどの間に過ぎ去ってしまう。
　夏が儚いなんて、他の街では思うのだろうか。
　この街で初めての夏を迎える相沢くんは、どう思うのだろうか。
　あたしは――何故髪を切っていない？
　栞は何と言ったか。
　確か――。
　あの子は、あたしの髪を好きだと言った。天然でウェーブの掛かった長髪と、自分の細い直毛と比べて。
　――栞の方がクセがなくて綺麗な髪じゃない。
　そう言うと、栞は笑って、
　――あたしの髪型が、大人っぽくて素敵だと。
　いつのことだったか。
　あたしはどう答えたのだろう。
　――そんなことを考えているうちに、我が家は目の前だった。二階の栞の部屋には電気が灯っていた。
　無駄な思索に耽るのも終わりだ。後は当事者同士が解決すればいい。恋愛に他人が首を突っ込むものではないと思う。
　あたしは階段を音を立てて登り、まっすぐに自分の部屋へと向った。二階の南側に二つ並んでいるのがあたしと栞の部屋。手前があたしで、奥が栞。
　食後は勉強するのが習慣だった。仮にも受験生なのだ。学年主席とはいえ油断は禁物。今日は思わぬアクシデントで予定が狂ってしまった。だけどその分夕食が早かったから、今からすぐ勉強にかかれば普段とそう変わらないスケジュールで過ごせるだろう。
　あたしは自室のドアを迷い無く通り過ぎると、栞の部屋の前に立った。　　
　二度、ノックする。
「栞？　入るわよ」
　返事を待たずにドアを開く。
「お姉ちゃん」
　ベットの上の栞が驚いて身体を起こす。枕もとのスナック菓子が数個、布団の上に転がる。
「だらしないことしてるわね」
「……いいじゃない、自分の部屋なんだから」
　読んでいた文庫本を閉じて、ベットの上にぺたんと座り込む。膨れながらあたしを見上げる栞を可愛いと思うのは、姉馬鹿なのかもしれない。
「ご飯、食べたの？」
「うん」
「太るわよ」
　スナック菓子の袋を見下ろしながら言うと、栞は凄く嫌そうな顔をした。
　――さて。
　食後に読書を楽しむ栞が普段より元気がないように見えるのは、これも姉馬鹿の所為だろうか？
　――栞に見られたという相沢くんの成人向け雑誌。それに写っているグラビアモデルは、どんな女性だ？
　デパートで偶然出会ったという二人の先輩はあたしも見知っていた。
　あたしを自慢の姉だと嘯く栞は、あたしをどう評する？
　栞と相沢くんは――どうして付き合いはじめた？
「全く」
　あたしは、深呼吸を一つして、機械的に唇を動かした。
「――いつまでも子供なんだから」
　栞はびくりと肩を震わせて、固まった。
　その後あたしに飛んできたのは、まさしく子供のような罵声と、スナック菓子の粉をまぶした枕だった。


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