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風を切る。ペダルを踏み込むたびに、耳元でびゅぅびゅぅと風が鳴った。
お姉ちゃんが綺麗だと言ってくれた髪が、風に巻かれて激しく踊る。視界の横を夜の街並みが凄い勢いで流れていく。
こんな世界を見るのは初めてだ。
自分がこんなに早く走れるなんて知らなかったから、私は懸命にペダルを漕ぎつづける。
路肩の石を踏んでタイヤが大きく跳ねた。ハンドルを持つ手に痺れが伝わる。それでもペダルを踏み込む脚は止まらない。
――お姉ちゃんはやっぱり酷い。
全部判っててあんなことを言う人だ。
だけどお姉ちゃんはとても優しいから。最後に私の背中をちゃんと押してくれた。
あたしは関係ないから、なんて。いつもはクールな振りしてるのに、それでもお姉ちゃんは誰よりも優しい。
そう思うと、ちょっと可笑しくなった。自転車を疾駆させながらくすくすと笑う。
駅前が近づくと人も車も多くなる。注意しなくちゃいけない。
また入院生活なんてことになると、今年の夏も四角い空を見上げるだけになる。お姉ちゃんはきっと物凄く怒るだろう。
私はほんの少しだけ速度を落とした。
最後の交差点を曲がった。
夜の学校を見るのは、小中高通して初めてだ。
夏祭りや盆踊りが校庭で開催されたこともあったけど、私は一度として参加したことがなかった。
校舎の影から丁度月が顔を出すところだった。
普通、怖いとか気味悪いとか感じるものなんだろうと思うけど、私にはとても幻想的な風景に思えた。
校舎の中に入ると、やっぱり怖いんだろうか。
今年の初めまで、私にとって学校はただ見上げるだけのものだった。
――あの頃、校舎を見上げていた中庭に、私は一人佇んでいた。
この場所は私にとって特別な場所だったから、もう一度始めるには、ここしかないと思う。
祐一さんは、思ったより早く来てくれた。
相当急いだのだろう、夜闇の中から現れた祐一さんは、肩で息をしていた。
サマーセーターが汗で張り付いて、折角の着こなしが少し崩れている。それでも祐一さんは、私を姿を認めると、
「よぅ」
と、笑って片手を上げた。
「待ったか？」
「いえ、今来たところです」
どこかで聞いたようなセリフを交わして、祐一さんは私の隣に並んだ。
「夜の学校で逢うのも、オツなもんだな」
私の隣で私と同じように校舎を見上げる。
彼は今、暗がりの中にそびえる校舎に、どんな思い出を映しているのだろう。
私と祐一さんにとって、特別な場所であるこの中庭から。
風一つ無いしんとした中庭は、私の記憶の中では昼間でも身を切るように寒かったというのに、今は蒸し暑かった。
「少し歩きませんか？」
私は祐一さんの返事を待たず、校舎と校舎の隙間に向って歩き出した。
小走りで追いついてきた祐一さんは、
「――香里に何か言われたのか？」
と訊ねた。
「はい」私は祐一さんを見ずに、こくと頷いた。
「いつまでも子供だって言われました」
「それは――」
祐一さんは返答に詰まった。祐一さんの立場だと何も言えないだろう。――いや、上辺だけでも否定することはできる筈だったけど、ここ数日間私に振り回された祐一さんは、咄嗟に否定できなかったのだと思う。
だから、暫く言葉を探した後、
「――それだけか？」
と、無難に繋げた。
「他にも色々言われました」
「例えば？」
「そうですね――」
私は唇に指を当てて、視線を月に向けた。
「秘密――です」
私はまだ、笑顔を見せない。
「祐一さんは」
「ん」
「祐一さんは、どうして私と付き合っているんですか？」
僅かばかりの風が、校庭に植えられた木々の葉を静かに揺らした。
「どうしてって、そりゃあ――」
祐一さんは驚いて歩みを止めてしまった。私も立ち止まる。
「好きだからに決まってるだろ？」
予想通りの回答。校舎の間の細い間道を抜けて、私たちは校庭で向かい合った。
「何でそんなこと訊くんだ？」
風は直ぐに止まる。
「私、きっとまだ子供なんです」
祐一さんは私の意図を測りかねて、次の言葉を待っているようだった。
「でも、祐一さんの周りには、私よりずっと大人の女性がいっぱい居て」
だから――
「私、ずっと不安だったんだと思います」
「大人とか子供とか、そんなの関係ないだろう？ 栞は俺にとって――」
「祐一さんの部屋であの本を見たとき、許せないと思いました」
言い終わらせないうちに、私は口を開く。
祐一さんはあたふたと狼狽した。
「いや、あれは違うんだって――」
「だって、あの本の写真、私と全然違って」
「栞、もしかして俺がああいう本を持っていたから怒ったんじゃなくて、あの本だったから腹が立ったのか？」
「当たり前です」
ようやく気付いた祐一さんを、私は多分子供っぽいであろう仕草で睨みつけた。
「あんなの見せられたら、祐一さんはああいう人が好きなんだと思います。酷いです」
うー、と子猫のような唸り声をセットで付ける。
「違っ、そうじゃないって！ あれは何ていうか、男の生理っていうか――」
祐一さんが今まで見たこともないくらい慌てるものだから、私はそれで少しすっとして、
「判っています」
ささやかな報復を終えた。
「でもそれは違ったんです」
視線を外して、校庭へと向ける。祐一さんは気が抜けた声で、へ、と言った。
「違ったって」
「最初はそれで怒っていたんです。そのはずだったんですけど」
私が本当に怒っていたのは、そんなことではなかった。いや、怒っていたわけじゃない。本当は――
「私、急に不安になったんです。あ、いえ、不安だったのに気付いた、のかも」
「不安って――何がだ？」
「だから――」
私はそこで言葉を切って――
走り出した。
「栞！？」
祐一さんが慌てて追いかけてくるのが判った。
その足音を背中で聞きながら、私は校庭の土を蹴る。半年前まではちょっと走っただけで動けなくなっていたのに、今は身体に羽根が生えたように軽い。
背後から迫る足音がどんどん大きくなる。祐一さんは羽根の生えた私より速かった。
だから私は、背中の羽根を羽ばたかせて、空へと逃げる。
校庭の一角にそびえるフェンスに飛びついた。
生まれて初めてよじ登るフェンスはとても高かったけど、私は何とかその城壁を乗り越えて、お城の庭に降り立った。
「――祐一さんっ」
スカートをはためかせて振り返る。
祐一さんはフェンスの一番上から、驚いた顔で見下ろしていた。
私は今日始めて笑顔を――子供のように悪戯っぽい笑顔を向けて、ワンピースの裾を大きく捲り上げた。
軽い夏物の生地の蛹を脱ぎ捨てて、私は蝶になる。
「どうですか、祐一さんっ」
月明かりがまるで舞台ライトのようで。城庭に備えられた大きなプールの水面がミラーボールさながらに光を反射し、私を照らし出した。
白い水着は、夜のプールにとても良く映えるだろう。
真っ青な海に映えるように。
祐一さんは未だフェンスの上から、数日前に祐一さん自身が選んだ水着で蝶になった私を見て、
「――ああ」
悪戯小僧のように、
「やっぱり栞にぴったりだな、その水着」
と。
満面に笑みを浮かべた。
大人っぽいセパレートではないその水着は、確かに私にぴったりだった。
いくら夏と言っても、夜の水に浸かると寒い。ここが北の果てに位置する街だということを、私は失念していた。
着衣のままプールに飛び込んだ祐一さんが、二度くしゃみをする。
それにつられるように私も大きななくしゃみをして、私たちは声を出して笑いあった。
祐一さんはいつも大人で、私のためにいつも心を砕いてくれて。私はもう普通の女の子になったはずなのに、やっぱりどこかぎこちなかった。
だから、風邪を引くかもしれないような馬鹿なことを二人でして、子供のように笑い逢えるのが、本当に嬉しかった。
それでも祐一さんは、私の前で大人を演じつづけるのだと思う。私が子供の分だけ、祐一さんは大人になるのだ。
だけど、たまには。
例えば、誰も居ない夜のプール。
青い海。白い砂浜。
私たちが出会った街の歩道。
初めてキスをした公園で。
こんな風に、子供に戻って笑い合えるなら――
私は、ゆっくりと大人になれるはず。
――やっと手に入れた未来への道を、二人でのんびり歩いて。
祐一さんが言った。
「なぁ栞。海、行ったことあるか？」
無かった。
「よかったらさ、夏休み、一緒に行こうぜ」
一も二も無く頷いた。
そんな私に祐一さんはにやりと笑いかけ、
「昼間のビーチで見る水着姿も、期待してるからな」
私は、夜のプールですっかり身体が冷えていたというのに、熱帯夜は蒸し暑すぎて――
――頬を、真っ赤にする。
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