一階トイレの脇、非常口と掲示された重たい扉の先を抜けると、そこには地震等の避難場所の確保からか、広々とした駐車場があった。
そこを取り囲んだ街路樹数本の側に添えつけられた電灯が、碁盤目状の区画にスポットライトを当てている。
左手側はバスで登って来た山道、右手側はどうやら崖になっているようだった。
僅かに髪を揺らす夜風を肌に感じていると、少しだけその辺を歩きたくなる。
そんなに遠出はしないつもりだったから、あたしは敢えて右手側へと歩いていく。
その先にある崖――行き止まりの向こうに広がる、ある訳のないと思っていた風景。
崖に添えつけられた、頑丈な手摺の先には、今までに見た事のないような景色が広がっていた。
段丘が階段のように連なった斜面の、その一つ一つの段に集まるようにして展開されている街。登って来た時は気付かなかった街。暗がりの中でのみ見えてくるその造型。
向こうにある山も、さらに向こうの山も、まるで雪を電飾に変えたクリスマスツリーのように着飾られていた。
写真やTVで見る映像と、自分の目で実際に見る映像。
"旅先ならではの風情"のせいかどうかは解らないけど、何だか違って見えるんだよね。単に虫が鳴くような些細な事でも、旅先だったら、それだけで何だか新鮮な気分になれる。
ただ山に登って街を見下ろしただけなのに、人工的な光の集まりが、星空よりもずっと綺麗に見えたような気がした。
一際目立つ大きなビルの光は星座の候補、偶に山道を走ってくる車は流れ星。"上"にある星空に負けないくらい、この"下"には澄んだ星空がある。
"朝が来れば、何もなくなる綺麗な物"
自分の中での星空の定義は、それだけで十分だから。
所詮ビルの光の集まりなんて、本当の星空に敵う訳ない。言うなら太陽に蛍が挑むようなものだと思う。
だけど、あたしはそれでも……そんなだからこそ"下"の星空の方が好きだって。何故かそう思えてしまうのだ――
ジャージのポケットに手を突っ込む。本当、シャッターチャンスはいつ来るか解らないよね？ 栞。
だけど、そこから出て来た物は――ぞうきん。
（違う違う。こんなの取り出すんじゃなくて……）
掃除の時に使ってた奴、多分そのまま入ってたんだろうな。そのくらい気付いてよお母さん――などと、旅行の用意を任せっきりだった自分が言えるはずもなく。
逆側のポケットに手を入れると、今度こそ確かな感触があった。
あの子に、この景色を持って帰ってあげたい。どっちが気に入るか解らないから、下と上、両方の星空を。
あたしは絵も書けないし、他にこの情景を残す手段も思いつかないけど、このカメラのフラッシュを入れてシャッターを押すくらいの事は出来る。
真夜中を白く染めるフラッシュは、どこまでも届くと思った。
麓に広がるそれなりに大きな街の隅々から、果ては宇宙の北極星までも明るく照らし、何一つあたしの見ている景色と変わらない風景をフィルターに収める事が出来るって。
今まで、写真やTVで見た風景に大して感銘を受けなかったのは、あたしがこの目で観て、この手で撮影した風景じゃなかったから。
自分以外に、自分が納得出来る風景は残せない。そんな勝手の過ぎる解釈。
それは、栞にとっても同じ事なのに。
栞自身が見る事の出来る病院からの夜景の方が、栞にとって――余程綺麗なモノなのかも知れないのに。
そんな独り善がりにも気付けないまま、あたしはシャッターを切る。
栞の為なら、あたしは世界で一番のカメラマンになってみせる。
あたしの見た最高の景色を、栞に見て貰うために。
シャッターを切る音が、かすかな虫の鳴き声に混じって辺りに響く。
プラスチックを打つ音が鳴るたび、辺りは一瞬のきらめきに覆われた。
ぴかっ、ぴかって。僅かな一瞬を生きる蝉が蛍のように光る事が出来たら、こんな風に光るのかも知れない。
結構、この旅を楽しんでいる事に気付く。
変わり身の早い奴、と言われれば返す言葉がないけど。何より一番大きいのは、側についてあげなくとも、栞の為に出来る事があったからだと思った。
――――
『お姉ちゃん、これ……カメラなんだけど、渡しておくね』
『こんな物、何に使うって言うの？』
『もちろん、写真を撮る為に決まってます』
『写真？』
『うん。撮って貰った写真見たりしてお姉ちゃんにたくさんお土産話聞かせて貰ったり、アルバム入れてずっと先の"いつか"に話したり、絵……』
『"え"って、何？』
『あ……えと、えと……何でもないですっ』
――別に"サボってもいいか"なんて考えてたんだ。
小学校以来の皆と学ぶ為の旅行。だけど"一人旅と変わらない旅行"なんて、何にも楽しみを見出せそうになかったから。
『私、楽しみなんだ、お姉ちゃんの見た風景を私も一緒になって見られる事が。そしたら、病室にいてももっとたくさん色んな事話せるし』
裏返せば、一緒に旅先を歩いてみたい誰かが居るなら行きたい、って事なのかも知れない。
『そう言ってくれると、あたし……すごく嬉しいよ。栞』
『私もいつかは、お姉ちゃんから独立して立派にならないといけないのに……ずっとこうやって甘えてばかりで。
それでいて、寝てばかりで何の役にも立てなくて。でも、そんな私なんかのお願いをきいてもらって……本当、ほんとうにありがとう、お姉ちゃん！』
栞から、"いつか"と言う言葉を聞いた時。
嫌な戦慄が、体中を走った。
その"いつか"って、一体、いつの事なのだろう。
『でも、お姉ちゃんにとって、早く私なんかよりずっと大切な人が見付かるといいんだけどな』
『……何、強がってるのよ。たまには格好いい男の子の一人でも連れて来いってこと？』
誤魔化すように、あたしは冗談を栞に向ける。
『私は大切な人、女の子でもいいと思うよ』
栞の言う"大切な人"。思春期の情動に流されて、偏った見方ばかりをしていたあたし。
『そんな、女の子なんて……それならあたしは、栞以外考えられないわ』
栞の枕もと……"美坂栞"の札が下げられた堅いパイプに、カッコつけるつもりでついてた右手。そこに暖かい手が添えられ、栞はあたしにこんな言葉をかけてくれた――
『――こうやって、いつもお姉ちゃんがそばに居てくれることは、嬉しい。だけど、お姉ちゃんが私以外の事で幸せそうにしてる時の方が、ずっとずっと嬉しいんだよ』
栞以外、考えられないんじゃなくて。"同姓の友達なんて考えたくなかった"、そんなあたしの考えを見透かしたような栞の言葉。
姉貴面吹かしたりして、いくら誤魔化しても、ダメだった。自然とこみ上がる感情を抑えきれなかった。
トイレに行くって言い訳して。こんな時でもかっこつけたがりのあたしは、栞から預かったカメラの前で、目の前の壁に一人"八つ当たり"した。
栞の"聞きたくもない運命"を、メスを懐に隠し持つ、白衣の人に聞いてしまった後だったから――
あたしは、そんな栞の"未来"のために……何をしてあげればいいんだろうか？
いっそ、友達でも作ってみようか？ 栞に言われるまで選択肢の一つにさえ選ばれなかった道。
唐突にしてはいい考えだと思う。それなら十分過ぎるきっかけになってくれるだろうし。
"栞の事しか考えたくない"、あたしと言う人間を変える為には。
それが、"栞の為になるのであれば"――あたしは、例えどんな事でも受け入れるつもりだから。
前のページ
次のページ
戻る