6.

　
　"さっきまでの出来事は、無かった事にする"

　"あたし達が友達になれたこと" そのひとつの事柄を、除いて。

　それが、彼女――水瀬さんの提示した、あたしが許しを得る為の最低限の条件だった。



「クラブ、やってるんだよね」
「はい、陸上部です。今よりもっともっと速く走ることが、わたしの目標ですから」

「……ホント、他に何にもないあたしも、見習わなきゃ」

　逃げるように、あたし達は無我夢中で話し込んだ。――彼方で轟く雷音のように無気味な何かから。
　さっきの男など、もう影も形も見えないと言うのに。

「美坂さんは、わたしなんかよりすごく頭いいです」
「半端に頭良くっても何にもならないわ。せめて"学年一位"くらいにはならないと、ね」

「なら、半端じゃないよう頑張ればいいと思います。目標は、高ければ高いほどいいですし」


「進学、しても……部活は続けるの？　その目標は変わらないの？」

「当たり前ですよ。良かったら、一緒に……それぞれの目標に向かって、頑張ってみませんか？」


　"無かった事にされた事"から、一つの事をあたしは学ぶ。
　友達一人守れなくて、あたしの一番大切な人を、守りきれるはずがない。　

　半端に想い続ける事がどんなに"いけないこと"か。あたしは水瀬さんにはっきりそう言ってのけた。

　自分の発言には、責任を取らないといけない。
　半端に人を想うくらいだったら――最初から忘れてしまった方がいいんじゃないかって――


　　『私もいつかは、お姉ちゃんから独立して立派にならないといけないのに』


　今頃になって、栞の言葉があたしの心を揺さぶる。
　もしかしたら、栞に依存していたのは、紛れも無いあたし自身じゃないかって――

　親には意地張って、他に何も頼る所がなかったあたしの行き先は、自然と決まってしまうのだ。


「そうね……あたし、今まで誰かに甘えてばかりだったから。……もしかしたら、頼っちゃうかもよ？」

　　『私もいつかは、お姉ちゃんから独立して立派にならないといけないのに』

「頼る、だけじゃなくて。支えあってけばいいと思います。でも、結局がんばらなきゃいけないのは、自分自身なんですけどね……」

　　『お姉ちゃんにとって、はやく、私なんかよりずっと大切な人が見付かるといいんだけどな』

「自分自身で、頑張る……？」
「はい。100%頼りきっちゃう人って、いると思うんです。だけど頼る人も頼られる人もそればっかりじゃいけない気がして。確かに人に頼られることは嬉しいけど、例えば他の誰がいくら走ったって、わたしは一秒もタイムが縮まない訳ですし。
　突き放す、って言うとちょっと違和感ありますけど。本当にその人のことを想うなら、そう言う考えも必要になってくるんじゃないかって。"そう思える人こそが、一番の大切な人なんじゃないかって"」

　あたしの存在が、いずれ栞の"未来"に広がる道を、遮る事になるのならば。
　水瀬さんが言う様に"突き放す"ことが、栞の幸せに繋がるのならば。

「それじゃ、水瀬さん……」
「何、ですか？」

　忘れても、いいですか？
　代わりに、あなたのこと、大切に想っていいですか？

「あたしがさ、さっきの約束……"勉強を誰よりも頑張って一位になる"って、今考えると歯の浮くようなセリフだけどさ。
　その約束……破らない限り、水瀬さんはずっと、あたしの"頼れる人"で居てくれるのかな？」


　　『お姉ちゃんがそばに居てくれることは、嬉しい。だけど、お姉ちゃんが私以外の事で幸せそうにしてる時の方が、ずっとずっと嬉しいんだよ』


「あたしの"一番の大切な人"で、居てくれるのかな……？」


　そんな、どうしようもないあたしの拠り所に、水瀬さんはなってくれますか？


「わたしも、同じこと、あなたに言っていいですか？」
「え……」

「さっき言われた"お父さん"のこと、気にしてないと言えば嘘になります。無かったことになんか出来ないです。……今のわたしじゃあなたを許せないかも知れません。
　だけど、それなら少しづつでも、時間を掛けてあなたのことを解っていけばいいんだって、あなたを許せるような存在になっていけばいいんだって、そう思うんです。
　だから――"美坂さん"も、ずっとわたしの"一番の大切な人"でいてくれますか？」


　いらないと意地を張った時は、いくらでも溢れてくるのに。

　どうして、何も、出ないんだろうね？


「助けに来てくれたこと、本当に嬉しかったです。いくら涙を流しても足りないくらい。来てくれるはずないって、勝手にそんなことばかり……思ってましたから……」


　今まで当たり前だった栞の存在を忘れることは、とても悲しい事だって。あの子はあたしの掛け替えのない存在"だった"って――誓いを立てることの出来る証。
　反面、水瀬さんと友達になれたことを、心から喜んでるって。これからもずっと宜しくねって、そんな誓いを立てることの証が――



「もう、ひとつ……」


　ずっと、さっきから乾いたままだよ。あたしの目。


「もうひとつだけ、訊いてもいいかしら……？」


　こんなに、心は、何かの感情でいっぱいなのに。



「わたしが答えられることなら、何でも」




　どうして、何も。出ないんだろうね――







「涙って……どうやって、流すんだっけ……」


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